助産師の部屋

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「 2013年10月」のアーカイブ

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戦後の混乱と助産婦

2013年10月25日(金曜日) 日本看護協会

みなさん、こんにちは

今回は戦後間もなくの話です。

 

 終戦を迎えると、焦土の中、類をみない物資不足も加わり、

病院機能のマヒが続きました。


 一方、満州や樺太からの引揚者や、戦地から兵士が帰還

したことで、空前のベビーブーム(年間出生数:270万人)が

到来します。

 その9割以上は自宅分娩ですから、産婆は戦後の混乱に

あっても、時代を駆け抜けるように全身全霊で多くのお産を

取上げていきました。

 

 全国各地で産婆がお産に忙殺されている頃、中央では

以後の産婆の運命を変える、大きな制度変更の方針が

占領軍(以下、GHQ)によって示され始めていました。

 GHQであるアメリカには、当時、産婆の制度がありません

でした(イギリス等のヨーロッパ諸国には、産婆に相当する

制度がありました)。

 

 当時のアメリカにおいては、お産は病院で行われるもので、

自然分娩はむしろ少なく、多くは麻酔と器械を使った分娩

でした。

 アメリカ建国の歴史を振り返ると、こうした医療依存度の

高い分娩は、ある面において必然であったのかも知れ

ません。

 

 さておき、自国に産婆の制度も歴史もないGHQにとって、

産婆の存在は理解できませんでした。

 忙しすぎた産婆たちにも、また、自分たちの活動や役割、

日本固有の文化や歴史的な価値等をGHQに十分に伝える

チャンスも時間もありませんでした。 

 

 一方で、アメリカは、日本の医療と公衆衛生の向上に大きな

意欲を持ち、精力的に視察や検討等を行いました。

 加えて、GHQ担当者は日本の看護制度の改革と併せて、

看護師の知識や技術の確保や、社会的な地位の向上、

男女平等、女性解放をも、熱意をもって目指していました。

 

 そうしたGHQ担当官の崇高で強い使命感が、他国の文化や

伝統・習慣への理解や、産婆の役割への洞察を曇らせたの

かも知れません。

 人間は「自分が正しい」と思うときほど、足元にある大切な

ことを見落としがちになるのは、洋の東西を問わないと

いうことかも知れません。

 

 GHQ担当官は強権を発動し日本産婆会を解散させると

共に、産婆と看護婦、保健婦の合同の全国組織を作らせ

ました。

 また、昭和23年には、保健婦助産婦看護婦法(保助看法)を

公布しました。

 

 そして、このとき、ついに「産婆」という名称が法律から消え

「助産婦」と称されると共に、教育制度も変更され助産婦

資格の取得に看護婦免許の取得が前提になりました。

 こうした、一方的な変更に対し、産婆たちは大いに反対

しましたが、時はすでに遅く、GHQの方針が翻ることは

ありませんでした。

 

 戦後、まもなくすると”産めよ殖やせよ”の政策が一転し、

人口抑制(産児制限)が政策課題となっていきました。

 昭和23年には優生保護法が公布され、人工妊娠中絶が

合法化しました。政府は避妊薬の販売を認可し、受胎調節の

指導も始めていきます。

 

 しかし、女性たちには浸透せず、闇の堕胎等が横行し、

次の妊娠・出産に悪い影響が及んだり、時には命の危険に

さらされる事態が引き起こされていました。

 「このままでは、母体が危険だ」。

自らの処遇を省みる間もなく、助産婦たちは受胎調節指導の

原動力になっていったのでした。

 

 

大正から昭和初期の産婆

2013年10月22日(火曜日) 日本看護協会

みなさん、こんにちは

今回は、大正時代から昭和初期にかけてのお話。

 

 

 大正時代に入ると、西洋医学を学んだ産婆たちが全国で

活躍するようになっていきます。産婆たちも、各地で分娩

介助の実績を通して、自らの社会的地位を築きあげて

いきました。 

 

 慢性的な経済不況の中、学力があり向学の志をもった

女性にとっては、産婆は憧れの職業となり、志願者も増加

していきました。 

 昭和に入ると間もなく、各府県の産婆組合が連合し、

大日本産婆会が結成されます。会員は五万人にも達した

とされ、現在、日本で働く助産師の数を大きく上回る産婆が

活躍していたことが解ります。

 

 大日本産婆会のスローガンは、資質の向上のための専門

教育の充実と、簡単な応急措置のための注射などを認める

こと、産婆の団体・組合の長は産婆自身が務めることを

はじめとした、真に自らの自治を求めるものでした。 

 一方で、社会は満州事変から日中戦争、更には第二次

世界大戦と、次々に戦争に突入していきました。

 

 “産めよ殖やせよ”の国策は変わらず、産婆の仕事は

忙しさをきわめていきました。 太平洋戦争のさなかには、

国民医療法が制定され、産婆規則があるにもかかわらず、

「産婆」については「助産婦」と改称された名称が用いられ、

医師、歯科医師、薬剤師と並び医療関係者として規定され

ました。 

 

 戦時下にあっては、助産婦は十字令書という御用令に

より、空襲警報がなると「救護所に直行し救護を担当する」

という極めて過酷な役割を、強制的に与えられたのでした。

  昭和20年には、当時、東京に残っていた全妊婦を貸切

電車に乗せて集団疎開させるという役目にも奔走します。

 

 こうした厳しい状況にあっても、助産婦たちは妊産婦の

傍らに寄り添いながら必死で働くのでしたが、同年、日本は

ポツダム宣言を受諾し終戦を迎えます。

 

 敗戦の翌年、戦争放棄を謳う日本国憲法が公布され、

平和への道のりが始まったかのように見える中、

助産婦たちは、また別の課題に直面することに

なるのでした。

明治の産婆―専門職として確立した時代

2013年10月16日(水曜日) 日本看護協会

みなさん、こんにちは


今回は、明治時代のお話です。


 明治時代、近代国家として出発した新政府の富国

強兵策や人口・衛生政策によって、産婆の歴史も

大きな転換点を迎えます。

 

 明治元年には、明治政府が太政官布達で産婆

規則を布告し、堕胎(だたい)や売薬の取り扱いを

禁止しました。

 当時、庶民の暮らしは厳しく、堕胎や間引き、

捨て子、餓死者は後を絶ちませんでした。産婆は

妊産婦を幇助(ほうじょ)するために、ときに堕胎等を

余儀なくされていたのです。

 新政府は子どもを"生産力"と捉え、国や家の経済

発展のために育児を奨励していくようになります。

 

 明治7年に発布された医政によって、産婆の資格・

役割などが規定され、医師と産婆の業務が法的に

区別されていきました。

 産婆を教育する方針も示され、西洋医学に基づく

本格的な産婆教育が展開されるようになっていった

のも明治時代でした。

 

 明治32年には、産婆の資格が法制上明確にされ、

専門職としての土台となる制度が確立されます。

西洋医学に基づく新しい教育においては、それまで

「胎児を大きくしない」ために用いるとしていた腹帯を、

胎児を取り出すことだけでなく、お母さんの体の保護も

重視する方向へ、また消毒や新生児の眼病予防の

ための点眼がなされるなど、より母親の身体と

新生児を守る科学的な視点でのお産へと進化

していきました。

 産婆たちは、自らの技術の向上と教育を目的

として、各地で産婆組合なども結成していきます。

 

 余談ですが、以前、明治中期の産婆の必携書を

図書館でみたことがあります。

 詳細な記述(正直、とっても難しい!)は、当時の

産婆の意気込みと熱意、技術の高さを物語って

います。けれども、反面、医学全般において、東洋

医学的な考えの「一人ひとりが主体となった癒し」や

「バランスを重視する」考え方が失われがちになり、

専門家主導になっていったのもこの時代でした。


 産婆教育が成果をあげる中、人口政策により全国

各地で出産が増加し、正規の産婆教育だけでは養成が

間に合わない事態も引き起こりました。


 簡単な試験で合格できる制度ができたり、学校を卒業

すれば無試験で産婆登録ができるような制度変更が

なされるなど、昭和の初期まで資格の三層構造が続く

時代に突入します。


 産婆は医師と同様に法律的な権利を有する一方で、

死亡診断書や死体検案書の作成といった、刑法・

民法上の義務・責任を担うようになっていきました。


 産婆の重要性は増し、明治以降、第二次世界大戦

終戦までは、産婆(助産師)が分娩の9割を取上げる

ようになっていきました。

  

 次回は大正時代から昭和初期にかけてのお話です。

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